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第5話 九年ぶりの初恋

作者: なつめ
last update publish date: 2026-07-26 19:19:32

第5話 九年ぶりの初恋

 KUKIホールディングス本社は、歓楽街の中心にそびえる黒い高層ビルだった。

 雨に濡れた外壁は、周囲のけばけばしい看板の光さえ拒むように暗い。

 無数の飲食店やクラブ、ホテルが密集する街で、その建物だけが別の秩序に支配されているように見えた。

 タクシーを降りた凛花は、ビルを見上げた。

 最上階は雨雲に近く、地上からでは窓の向こうまで見通せない。

 九年前、朔夜は何も持っていなかった。

 少なくとも、凛花にはそう見えていた。

 将来の約束も、社会的な立場も、女優として生きる自分を守れるだけの力もない青年。

 その彼が今は、この街そのものを見下ろしている。

 凛花は濡れた髪を手で整え、自動扉をくぐった。

 磨き上げられた黒い床に、みすぼらしい自分の姿が映る。

 広いロビーには夜遅くまでスーツ姿の人間が行き交っていたが、話し声はほとんど聞こえない。警備員の立つ位置も、監視カメラの数も、一般企業の本社とは思えないほど多かった。

 受付へ向かうだけで、何人もの視線が凛花に集まる。

 顔を知られたのだろう。

 だが、マンションの前にいた報道陣のように駆け寄ってくる者はいなかった。

 見て見ぬふりをすることまで、この会社では統制されているようだった。

「九鬼朔夜さんに会わせてください」

 受付の女性は、完璧な微笑を崩さなかった。

「恐れ入ります。お約束はございますか」

「ありません」

「それでは、お取り次ぎいたしかねます」

「白峰凛花が来たと伝えてください」

 名前を聞いた受付担当者の目が、一瞬だけ揺れた。

 しかし、すぐに訓練された表情へ戻る。

「申し訳ございません。会長は本日、すでに退社しております」

「ここにいるんですよね」

「会長の予定についてはお答えできません」

「伝えるだけでいいんです」

「お約束のない方からの面会は、すべてお断りしております」

 凛花は受付の前から動かなかった。

 背後で警備員がこちらを見ている。

 騒げば、すぐに外へ出されるだろう。

 今の白峰凛花には、面会を強要できる権力も、受付担当者を動かせる肩書もない。

 それでも、ほかに使えるものはなかった。

「お願いします」

 凛花はもう一度言った。

「白峰凛花が来たと、九鬼朔夜に伝えてください」

「お客様――」

「ここを追い出されても、外で待ちます。明日の朝になっても、明後日になっても帰りません」

 受付担当者の笑みがわずかに硬くなる。

 白峰凛花という名前に、どれほどの価値が残っているのかは分からない。

 かつてなら、国内のほとんどのホテルや企業が特別な応接室を用意した。凛花が訪れただけで宣伝になり、支配人や社長自ら挨拶に現れた。

 今は違う。

 存在するだけで混乱を招く、厄介な女。

 けれど、九鬼朔夜にとってだけは、まだ別の意味を持っているかもしれない。

 それが愛情でなくてもいい。

 憎しみでも、軽蔑でも構わなかった。

 無関心でさえなければ、扉を開けられる可能性はある。

 受付担当者は小声でどこかへ連絡した。

 短いやり取りの後、受話器を置く。

「ただいま確認いたします。そちらでお待ちください」

 凛花は、ロビーの隅にあるソファを示されても動かなかった。

 受付の正面に立ったまま待った。

 一分が、異様に長い。

 着信のないスマートフォンを何度も握り直す。

 マンションから自分を追ってきた黒い車が、このビルの周囲にいるのかもしれない。報道陣に居場所を知られるのも時間の問題だった。

 ここでも拒絶されたら、本当に行く場所がない。

 やがて、専用エレベーターの扉が開いた。

 一人の男がこちらへ歩いてくる。

 黒いスーツを隙なく着こなし、前髪を整然と後ろへ流している。凛花を見ても、驚きも好奇心も表さなかった。

「白峰凛花様ですね」

「はい」

「柊木蓮司と申します。私についてきてください」

「朔夜に会えるんですか」

 蓮司は答えなかった。

 受付担当者へ目を向け、わずかに頷く。それだけで、警備員たちが視線を外した。

 凛花は蓮司の後を追った。

 一般の社員が利用するものとは違うエレベーターへ通される。蓮司がカードキーをかざすと、最上階のボタンだけに白い光がともった。

 扉が閉じる。

 鏡張りの箱の中で、凛花は自分の荒れた姿を改めて思い知らされた。

 雨に濡れた髪。

 化粧の落ちかけた顔。

 持ち出せるものだけを詰めたバッグ。

 九年前、朔夜へ別れを告げた時の自分とは、あまりにも違う。

 あの日の凛花は、十七歳で主演女優賞を獲得したばかりだった。

 未来は自分のために用意されていると信じていた。

 朔夜よりも遠く、高い場所まで行けると思っていた。

「九鬼さんは、私が来ることを知っていたんですか」

 凛花が尋ねても、蓮司は前を向いたままだった。

「会長に直接お尋ねください」

「私の記事を見ていますか」

「会長がお客様に関する報道をどこまで把握しているか、私からはお答えできません」

 拒絶ではない。

 だが、入り込める隙もなかった。

 この男は、朔夜のことを何ひとつ外へ漏らさない。

 エレベーターが止まる。

 最上階には、ほかの社員の姿がなかった。

 間接照明が続く静かな廊下を進み、蓮司は最奥にある大きな扉の前で足を止めた。

 二度、扉を叩く。

「白峰凛花様をお連れしました」

『入れ』

 低い声が聞こえた。

 たった一言で、凛花の胸が強く鳴った。

 忘れていたわけではない。

 何年経っても、映画の中で似た声を聞くたびに思い出した。

 けれど、記憶の中に残っている声よりも低く、冷たくなっている。

 蓮司が扉を開けた。

「どうぞ」

 凛花は足を踏み入れた。

 最上階の執務室は、豪華でありながら生活の匂いがまるでなかった。

 広い室内に置かれているものは少ない。大きな机と革張りの椅子、来客用のソファ、壁際に整然と並ぶ書類棚。

 絵画も、家族の写真もない。

 窓の外には、雨に濡れた歓楽街の明かりが広がっていた。

 その大きな窓の前に、一人の男が立っている。

 九鬼朔夜。

 九年前よりも背が高く見えた。

 実際に伸びたのではなく、肩幅が広くなり、立っているだけで周囲を圧倒する存在になったからだろう。

 青年らしさは完全に消えていた。

 仕立てのいい黒いスーツを身にまとい、片手をポケットに入れている。窓に映る横顔は鋭く、近づく者を無言で拒絶していた。

 懐かしいと思える部分を、凛花はすぐに見つけられなかった。

 朔夜がゆっくり振り返る。

 視線が重なった。

 驚きはなかった。

 九年ぶりに会った女を見る目ではない。

 凛花がここへ来ることまで、最初から分かっていたような目だった。

「久しぶりだな」

 朔夜の視線が、濡れた髪から足元までを冷静になぞる。

「白峰凛花先生」

 その呼び方に、凛花の胸が痛んだ。

 九年前、朔夜は凛花の出演作を必ず見ていた。

 小さな役しか与えられなかった頃から、下手な演技をすれば容赦なく指摘した。凛花が賞を取った夜だけは、自分のことのように喜んでくれた。

 ふざけて「大女優先生」と呼ぶ声には、いつも不器用な愛情があった。

 今は、懐かしさも喜びもない。

 磨き上げた刃物のような皮肉だけが残っている。

「……久しぶり」

「九年ぶりに会いに来た理由が、昔話ではなさそうだな」

 朔夜は机へ向かい、椅子に腰を下ろした。

 凛花へ座るようには言わない。

 蓮司は扉の近くに控えている。

 凛花は立ったまま、朔夜と向き合った。

「助けてほしいの」

「何から」

「今、報道されていることは事実じゃない。真白ちゃんへ暴力を振るったことも、嫌がらせをしたこともない。薬物にも手を出していない」

「それを俺に信じろと?」

「何者かに仕組まれたの。映像も音声も、全部、最初から私を陥れるために用意されていた」

「それで?」

「証拠を調べてほしい。相手は私の自宅へ侵入して、仕事のデータだけを盗んだ。脅迫電話もあった。マンションから出た後は、黒い車に尾行された」

 凛花は息を継いだ。

「身を守るためにも、あなたの力を貸してほしい」

 朔夜は表情を変えなかった。

 机の上で指を組み、凛花を見ている。

 あまりにも静かな視線だった。

 同情も、心配もない。

「警察へ行け」

「行った。でも、証拠がないと言われた」

「なら、弁護士を雇え」

「口座を凍結されている。違約金を請求している企業から、資産の仮差し押さえを申請されたの」

「俺には関係ない」

「分かってる」

「分かっていないから、ここへ来たんだろう」

 朔夜の声には怒りさえなかった。

 怒鳴られる方が、まだ耐えられたかもしれない。

 凛花の存在など、すでに遠い過去の一部でしかないと言われているようだった。

「昔の男なら、金も力も無条件で差し出すと思ったのか」

「違う」

「九年前に捨てた男が、今でもお前を待っていると?」

「そんなことは思っていない」

「どうだかな」

 朔夜の目が細められる。

「俺がまだお前に惚れていると、本気で思っているのか」

 胸の奥へ、鈍い痛みが走った。

 期待してはいけないと分かっていた。

 朔夜が自分を愛していたのは九年前だ。

 その愛情を壊したのは、ほかでもない凛花だった。

「思っていない」

 声が震えそうになるのを堪えた。

 朔夜は容赦なく続ける。

「なら、なぜ来た」

「あなたが私を嫌っていても、取引はできると思ったから」

 その瞬間、朔夜が初めてわずかに口元を動かした。

 笑みではない。

 商品として差し出された人間に、どれほどの値段をつけるべきか測る顔だった。

「取引か」

「あなたが望むものを差し出す。私にできることなら」

「今のお前に、何がある」

「演技ができる」

「仕事はない」

「必ず戻る」

「事務所も、スポンサーも、世間も、お前を捨てた」

「それでも戻る」

 凛花は目を逸らさなかった。

 ここで怯えれば、朔夜は自分を切り捨てる。

 十八歳になる前から、競争と悪意ばかりの世界で生きてきた。現場で無視されても、役を奪われても、演技だけは誰にも譲らなかった。

 今は、その演技まで奪われようとしている。

「私は、まだ終わっていない」

「世間は終わったと思っている」

「世間が決めることじゃない」

「仕事を与える人間がいなければ、女優は存在できない」

「もう一度、振り向かせる」

「どうやって」

「何でもする」

 朔夜の視線が鋭くなる。

「戻るためなら、何でもする」

 しばらく、室内には雨が窓を打つ音だけが響いた。

 朔夜が椅子から立ち上がる。

 机を回り込み、ゆっくりと凛花へ近づいてきた。

 一歩近づくごとに、逃げ場がなくなる。

 九年前は、もっと近い距離で笑い合っていた。

 手を繋ぎ、抱きしめられ、唇を重ねた。

 今は、数歩先から近づいてくるだけで呼吸が苦しくなる。

 朔夜は凛花の目前で足を止めた。

「何でも?」

 低い声が頭上から落ちてくる。

 凛花は拳を握った。

「私にできることなら」

「便利な言葉だな」

 朔夜の手は動かなかった。

 凛花の顎へも、髪にも、肩にも触れない。

 かつて愛した女の存在を確かめようとさえしない。

 ただ冷たい目で、凛花の顔を見下ろしている。

「女優としての自尊心も」

 朔夜は静かに言った。

「清純派の看板も。世間から愛されてきた白峰凛花も。全部捨てられるか」

 凛花は唇を結ぶ。

 それらを手に入れるために、朔夜を捨てた。

 九年前、どうしても失いたくないと思ったものばかりだった。

 今はもう、ほとんどが奪われている。

「それで真実を証明できるなら」

「勘違いするな」

 朔夜の声が、凛花の言葉を切り捨てた。

「俺はお前の無実を証明するとは言っていない」

 凛花の表情が止まる。

「じゃあ、何を……」

「お前が本当に無実かどうかは、俺が調べて決める」

「もし、私が嘘をついていたら?」

「その時は、俺がお前を潰す」

 脅しではなかった。

 朔夜なら実行する。

 事務所やスポンサーがしたように、契約を切るだけでは済まさない。

「それでもいい」

 凛花は答えた。

「私は何もしていない」

 朔夜は数秒間、その目を見つめた。

 やがて凛花から視線を外し、扉のそばに控えている蓮司へ向ける。

「蓮司」

「はい」

「契約書を作れ」

 蓮司は内容を尋ねなかった。

「承知しました」

 短く一礼し、静かに執務室を出ていく。

 凛花は背を向けた朔夜を見た。

「待って。どんな契約なの?」

「俺は慈善事業でお前を拾うわけじゃない」

 朔夜は窓の向こうへ視線を向けた。

 眼下には、雨に煙る街が広がっている。

「お前の生活、仕事、対外的な立場。そのすべてを俺が管理する」

「それは……所属契約ということ?」

「そんな生温いものじゃない」

 朔夜が振り返る。

 黒い瞳には、九年前の優しさなど一片も見えなかった。

「お前の人生を、俺へ売る契約だ」

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